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日本でひとやすみ

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禅に学ぶ心と暮らしの整え方

インドや中国を経て、12~13世紀を中心に日本へと伝わった禅。
現代の日本文化にも深く根差すその思想は、規則正しい生活の中から心の安らぎが生まれると教えてくれる。心と暮らしが晴れやかになる、禅の智恵を学びたい。

写真●栗原 論

「今この瞬間」に意識を向ける

太陽が昇り始め、澄み切った空気が辺りを包む、朝5時。広島県にある普門寺の副住職、吉村昇洋さんは、手際よく準備を整えて坐禅を始めた。ゆっくりと呼吸をして、ゆるやかに視線を落としながら、壁に向かって数十分。静寂の中で正しい姿勢を保つその佇まいには、凛とした美しさが感じられる。

「禅において大切なのは、『今この瞬間』に、意識を向けること。坐禅は、それに気づくきっかけを与えてくれます」と吉村さんは説く。心を無にしようと坐禅を組むのではない。雑念は排除するのではなく、ただ受け止める。さまざまな思考や感情が浮かんでくる自分自身を客観視し、心のありようを見つめるのだ。

「過去を引きずったり、先のことを心配したり、私たちは目の前の現実にはない物事に心を乱されがちです。坐禅を通じて心や体の力みが解放され、今この瞬間の、ありのままの自分と向き合えるようになれば、余計な思考にとらわれることもなくなります」

行いのすべてが修行

坐禅の後に行うのは、読経、食事、掃除。それらをこなす吉村さんの動作には無駄がなく、ひとつひとつが丁寧に進められていく。

「一挙手一投足すべての行為が修行であるというのが、禅の考え方。手を抜かず、真剣に取り組まなければなりません」

なかでも、つい怠けがちになる掃除は、自分の心のありように気づきやすい修行のひとつだ。かつて、吉村さんが2年2カ月にわたって過ごした曹洞宗の大本山永平寺での修行生活でも、掃除には多くの時間があてられていた。広大な寺院の建物や境内を清掃するため、決められた作法に従って、ひたすらに取り組んだという。

「考える間もなく、体を動かします。それはまさに、『今この瞬間』に、意識を向けることにほかなりません。掃除も坐禅と同じような意味を持ってくるのです」

同様に、食事も大切な意味がある。禅の教えでは、米一粒、菜っ葉一枚も無駄にせず、食材のすべてを残さず味わい尽くさなければならない。そのため、決められた食べ方で、声を発することなく、ただひたすら食す。目の前にある食事と真剣に向き合うのだ。

「生き物を殺すことをよしとしない禅僧が食べるのは、肉や魚を使わない野菜中心の料理です。それが精進料理と呼ばれるのは、仏道修行としての食事であるからこそ。『今この瞬間』の体験としての食事に向き合うことに意味があるのです」

境内の落ち葉やごみを集めるため、竹ぼうきで掃き掃除を行う

使い古した木綿布を用いて、床などを拭き掃除するぞうきんがけ。両手を広げ、体重をかけて拭く。自重を活かしたぞうきんがけは、「今この瞬間」に意識が向きやすい

ぞうきんを固く絞ることで、汚れを十分に落とすことができる

ていねいな手際でごまをする吉村さん。調理中も片づけを怠らない台所は常に美しく保たれている

永平寺の修行と同様の朝食。左から、粥、漬物、ごま塩

両手を使って匙や器を扱うのは、作法のひとつ

禅から見直す日々の暮らし方

こうした禅の修行を、日常生活でそのまま実行するのは難しいかもしれない。しかし、その考え方を日々の暮らしに取り入れていくことはできるだろう。

たとえば、毎日10分間でも時間を設け、その範囲内で入念に掃除に取り組むだけでも、構わないという。食事の際にも、別のことに気を取られず、食べる行為に意識を向ける。大事なのは、日々の行いの中に、「今この瞬間」に気づき、それをじっくり味わい、ありのままに受け止めることだ。

「心を整えようと意識をしながら、何かを行うのは間違いです。掃除や食事、そして坐禅も、ただひたすらに実践するだけ。そうすれば自ずと気持ちは穏やかになっていきます。生活を整える実践を続ければ、自然と心も整っていくというのが、禅の考え方なのです」

少し堅苦しいと感じられる規則正しい生活の中にこそ、意外にも心の安らぎがある。禅の教えにならい心と暮らしのあり方を見直してみてはいかがだろうか。

よしむら・しょうよう
1977年生まれ。曹洞宗八屋山普門寺(広島県広島市)副住職。公認心理師/臨床心理士の資格も有し、広島県内の病院にて心理職として勤務するかたわら、講演や執筆活動を行う。著書に『心とくらしが整う禅の教え』『精進料理考』ほか。