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弓道(きゅうどう)って何?

弓道の成り立ち

弓は、狩りの道具や武器として1万年以上も前に使われ始めました。奈良時代(710年〜794年)から平安時代(794年〜1185年)にかけては、弓は神を祭るときに用いる器具の一種としてあつかわれ、宮廷(きゅうてい)行事で弓道の儀式が行われていました。

1543年、種子島(鹿児島県)に流れ着いたポルトガル人によって日本に初めて火縄銃(ひなわじゅう)という鉄砲(てっぽう)がもたらされると、武器としての弓の地位は低下しましたが、指導者階級である武士は大切な教養の1つとして弓道の鍛錬(たんれん)に励(はげ)みました。

辟邪絵(へきじゃえ) 毘沙門天像(びしゃもんてんぞう) 鬼神を弓矢で退治しようとする毘沙門天(奈良国立博物館 出典:ColBase )

三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)の通し矢

弓道を通じて武士が体力・精神力を競う行事として、江戸時代(1603年〜1867年)、京都の三十三間堂(蓮華(れんげ)王院の本堂)で「通し矢」が行われました。堂内の細長い空間(はば2.2メートル(約7.2フィート)×高さ5メートル(約16フィート)×長さ120メートル(約394フィート)をはしからはしまで射通すもので、放たれた矢が空間内の上下左右いずれからもはみ出してはだめです。しかも、座った姿勢で一昼夜かけて、何本もの矢を次々に射なければなりません。

腕に自信のある武士が「通し矢」を願い出て記録を争いましたが、紀州藩(はん)(江戸時代に現在の和歌山県と三重県の南部を治めた紀州徳川家の領地)の和佐大八郎(わさだいはちろう)は1万3053本を放ち、そのうち8133本を射通す大記録を樹立しました。

通し矢が行われた三十三間堂

弓道は明治時代(1868年〜1912年)には学校教育に取り入れられ、以来、授業あるいはクラブ活動として多くの大学、高校、中学校で行われています。弓道では、自分の力量に応じて弓の強弱を加減でき、その強弱は的中にあまり関係しないため、老若男女が楽しめるスポーツとして広まっています。

伊勢神宮で開かれた全日本選手権大会のようす(全日本弓道連盟)
明治神宮で開かれた全日本遠的選手権のようす(全日本弓道連盟)

かつて「通し矢」が行われた京都・三十三間堂では、毎年、数本の矢を60m遠方の的めがけて射る「全国大的(おおまと)大会」が行われます。この大会は成人していることが参加資格になっていることから、成人の日(1月第2月曜日に20才を迎(むか)え大人になった青年を祝う)近くの日曜日に開かれます。新成人をふくめ1000人以上が参加します。

三十三間堂で開催された全国大的(おおまと)大会の様子(全日本弓道連盟)