けん玉の歴史
3つのパーツと糸の組み合わせ
今のけん玉は、「けん」と「皿胴(さらどう)」、それに「玉」の組み合わせとなっています。「皿胴」の両側は大皿と小皿となっており、「玉」が約40センチメートル(約16インチ)の糸で結ばれています。「皿胴」をつきさすように、先がとがり(けん先と言います)、反対側が中皿となっている「けん」がついています。「玉」には、けん先にすっぽりはまる丸い穴があいています。
これをうまく操って、玉を大中小の皿に乗せたり、けん先で受け止めたりすることが基本で、そこから数え切れないほどの技が出てくるのです。
フランスの「ビル・ボケ(Bilboquet)」
けん玉は日本で生まれたかのように思われがちですが、実はそうではありません。いろいろな説がありますが、16世紀のフランスで生まれたという記録があります。
フランスでは「ビル・ボケ(Bilboquet)」と呼ばれていました。ビルは玉、ボケは小さい木のことで、木で作られた小さな玉で遊ぶという意味だったようです。当時のものは、今のけん玉とはちがい、両はしに大小の受け皿があって、糸でつながれた玉をかわるがわる受けることを、何回もくり返すというものだったようです。
日本には江戸時代中期の1777年〜1778年ごろに「ビル・ボケ」が伝わったと言われています。そのころは、お酒の席の遊びとして大人たちが楽しんだと言われ、失敗したらお酒を飲まされたそうです。
日月ボール
明治時代(1868年〜1912年)の1876年、日本の行政機関の1つであった当時の文部省(現在は文部科学省)が出した児童教育解説書に、けん玉が紹介され、次第に子どもたちの間で行われるようになりました。大正時代(1912年〜1926年)の1919年に今のけん玉の元になった「日月ボール」というものが発売されました。玉を太陽(日)に見立て、三日月のような形に浅く作った皿で受けることから、「日月」と名づけたとのことです。これが大ブームとなり、昭和時代(1926年〜1989年)初期にかけて、羽子板に玉をつけたものなど、いろいろなけん玉が現れました。
スポーツ競技として世界に広がる
戦後、1945年〜1955年ごろにかけて、けん玉はメンコ、ビー玉、ベーゴマなどと共に、町の駄菓子屋(だがしや)さんで売られているぐらいだったのですが、1975年、童話作家の藤原一生(ふじわら・いっせい)さんが日本けん玉協会を立ち上げ、より多くの人たちが同じルールで遊べるようにという目的で、統一された規格の競技用けん玉と統一ルールができました。
これによって、けん玉はスポーツ競技としても広がっていきました。小学生大会の文部科学大臣杯(もんぶかがくだいじんはい)のほか、学生や大人の大会も行われ、海外へ広める活動も盛んになっています。
今では「KENDAMA」が世界共通語として使われ、アメリカやヨーロッパなどでも大会が開かれています。