Three-Piece Story / Takeuchi Makoto
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第9話
僕が突然オーストラリアに行くと言いだしたものだから、両親はしばらく口もきけないくらいに驚いていた。
「何を言うかと思やあ」父はまじまじと僕を見た。「お前、英語なんか喋れるのか?」
「まあ……高校で習った程度なら」
「旅費はどうすんのよ」母は不審そうに言った。「親をあてにしたって無駄だからね」
「バイト代もたまったし、サークル旅行を諦めれば格安チケットくらいは買えるんだ」
西オーストラリアのパースまでの往復航空券と空港からのバス代、滞在中の安宿代やフリーマントルまでの電車賃などを計算すると、資金的には本当にぎりぎりの旅となる。余計に遊んだり何か買ったりという余裕はなかったが、この旅行自体が大がかりな遊びみたいなものだと思えば惜しくはない。旅行についてあれこれ調べているうちに、僕はすっかりその気になっていた。
「夏の間の課題で国際経済論のレポートってのがあるから、この目で見た日豪貿易の実態っていうのを書こうと思ってるんだ」
大学の勉強に絡めた口実を付け加えたら、両親も強く反対はしなくなった。旅先についてはどうしてオーストラリアなのかと不思議がったものの、息子が海外で見聞を広めてくることについては異論はないらしい。あるいはあったのかもしれないが、図書館でコピーしてきたガイドブックを見せて西オーストラリアの治安の良さや物価の安さを説明したらそれなりに納得してくれたのだった。
「じゃあお前」父は仕方なさげに許してくれた。「親孝行と思って土産でも買ってこい」
「オーストラリアだったら」急に母の目が輝いた。「あたしはオパールの指輪がいいわ」
「悪いけど、餞別でももらわなけりゃ土産を買う余裕なんてないんだ。真面目な話」
「何言ってやがんだ」父は途端にしかめ面になった。「結局親から金をせびる気か」
「ほんとほんと」母も言った。「全く虫がいいんだから」
そういうところは親に似たんだろうと思ったが、あえて口にはしなかった。せっかく両親の許可が下りたのに、ここで機嫌を損ねてしまったら元も子もない。

それでも出発当日には両親連名で五千円の餞別をくれた。僕が本当にぎりぎりの貧乏旅行に出ることを知り、とりあえず食事くらいはまともに食べろと言ってくれたのだ。予算の都合で旅行日程は四泊五日に切り詰めたので、一日千円あればどうにか食いっぱぐれることはなかろうということだった。
成田空港からは夜の出発となった。四泊のうちの初めと終わりは機中泊なのだ。体力的にはきついらしいが、その分の宿代が浮くと思えば辛くはない。第一、初めての海外旅行で一人旅という興奮や緊張のためか、飛行機の中ではほとんど眠れなかったのである。
もちろん拙い英語や少ない予算のことを考えれば不安を覚えずにはいられない。だけど不安よりも期待の方が大きくて、飛行機が飛び立った後にはさらに膨らんでいった。自分がいったい何を期待しているのかも分からないまま、とにかくやたらとわくわくするのである。成田空港で両替したビニールポリマー製のオーストラリア紙幣を眺めつつ、遠足に出かける子供みたいな気分を味わっていた。
スコットや張に会うのが楽しみだったし、架空の島への出発点での待ち合わせというだけでも心が踊る。だけどそれだけではなくて、自分の中で何かが変わっていくような気がするのだ。それは新しいことが始まりそうな予感でもあり、自分がとらわれていたものから解放されるような感覚でもある。今まで自分でも気づいていなかったもう一人の僕が目覚めるような高揚感の中では、眠気なんてちっとも涌いてこなかった。
そういう感覚がなかったとしても、現実的に眠れなくなる要因もあった。座席はもちろんエコノミークラスだったのでゆっくり体を伸ばすことはできなかったし、隣の中年女性の鼾もやかましかった。おまけに機内では各座席にモニター画面が用意されていて、シートについたコントローラーを操作するとゲームで遊ぶことができたのである。
  ゲームの中にはチェスも入っていて、スコットや張に鍛えられた腕を試すいい機会だった。乗客同士で対戦するシステムで、対戦相手の座席番号が表示されるからトイレに立った時にどんな顔の相手と戦ったのか確かめることもできる。軽く負かされた相手が小さな子供だった時には気落ちしたが、苦労して倒した相手がスーツ姿の西洋人だったりするとチェスの本場から来た刺客を倒したような気分になれた。これまでネットチェスばかりで対戦相手の顔を見るのは初めての体験だったし、もうすぐスコットや張がどんな顔をしているのかも分かるのかと思うとますます楽しみになってますます眠れなくなってしまった。
二人は僕より先にオーストラリア入りしているはずだった。待ち合わせは恒例に従って水曜日にして、時間は正午と決めた。待ち合わせ場所はもちろん、インド洋を西に臨むオールドポートの立札の前である。
最後にそれを確認した時、スコットが注意ともパズルともつかない問題を出してくれた。『オーストラリアに旅した人は、太陽を見て西を探すと間違えやすいです。どうしてでしょう?』というのである。『だから気をつけてね』とのことであったが、最初は何に気をつければいいのか分からなかった。
しかし旅行準備としてネットや図書館でオーストラリアのことを調べているうちに、自然とその問題の答えに気がついた。今では二人に会ってその解答を告げるのも楽しみだったのである。

Copyright (C) Takeuchi Makoto/Web Japan, English translation (C) John Brennan 2007.
Edited by Japan Echo Inc.