第2話
一晩たっても謎の解答は思いつかなかった。どうもすっきりしないので、僕は朝食で顔を合わせた父にその推理パズルを出してみた。ネットで知り合ったアメリカ人から出題されたと説明すると、父は呆れた声を上げた。
「お前な、せっかく高いパソコンなんだから、もうちっと有意義なことに使えよ」
文句を言いつつも、寝起きの顔はどこか嬉しそうだった。この年代にしては珍しいくらいお喋り好きで、地元の商店街では「話の面白い電器屋さん」で通っていた人なのだ。
「で、答えは何なんだ?」
「正解は今夜って言われたんだ。よかったら父さんも、店が暇な時にでも考えてみてよ」
暇な時と言ったものの、うちの電器屋は基本的に暇だった。大手の量販店に客をとられ、昔馴染みのお客の修理や買い換えで食いつないでいるようなものである。父の主な業務は店の机に座って電話番をすることで、大半はテレビや雑誌を眺めて過ごしている。大手から設置工事などを回してもらえば仕事もあるのに、商売敵の下請けなんかやれるかと言って働かないのだ。冗談混じりにサラリーマンなら定年の歳だから働かないように心掛けているなどと言っているくらいなので、スコットの推理パズルは格好の暇つぶしだろう。
しかし父は、味噌汁をすすりながらちょっと考えただけで解答を思いついたらしい。
「酒場の親爺が構えた銃ってのは水鉄砲だったってことで、筋が通るんじゃねえか?」
「どうして水鉄砲だと筋が通るのさ」
「客は水を注文したんだろ。そいつの顔にぴゅって水をかけてやったんだ。飲み屋で酒も頼まねえような奴はこうしてやるってな」
「でも、お客は礼を言ったんだけど」
「そりゃ多分、その親爺の顔が恐かったんだな。水をかぶった客は恐れをなして、とりあえず礼だけ言って退散したってことだ」
「恐くてもお礼は言わないと思うけどなあ」
父なりのストーリーを考えてくれたようだが、僕は納得できなかった。だいたい酒場の親爺が都合よく水鉄砲を持っているのも変だと言うと、父はちょっと不機嫌な顔になった。
「俺の答えにケチつけてる暇があったら自分で考えろよ。親ばっかり頼ってねえで」
そこに母が帰ってきた。近所の惣菜工場で早朝のパート勤めをしているのだが、玄関から居間に来るまでに僕らの会話も聞こえていたらしい。父の肩を持って口を挟んできた。
「だいたい昇太、どうせ頭を使うんだったらそういうことじゃなくて勉強に使いなさいよ。大学の学費だって安かないんだから」
「そうだぞお前。まともなとこに就職できるように、ちゃんと単位とっとけよ」
思わぬところで小言をくらうはめになってしまった。母は学校の成績さえ良ければ人生何とかなると思っている人だし、父は自分が自営業で苦労したものだから僕には大企業に就職しろというのが口癖なのだ。
僕はというと、ようやく受験から解放されて大学生になったのに、一年生の五月から就職のことまで考えたくない。茶碗に残ったごはんを
お茶づけにして掻き込み、さっさと朝食を済ませて退散することにした。
「じゃ、勉学に励んで参ります」
鞄を持って玄関に向かった。今日の講義は午後からでいいのだが、朝から説教されるよりは大学でぶらぶらしていた方がましである。
「今日はアルバイト?」母が居間から尋ねてきた。「夕飯はどうすんの?」
「外で
ラーメン
でも食べるよ。遅番だから」
秋葉原で閉店まで働いて帰宅すると十時頃になる。適当に外食しないともたないし、大学ではラーメン研究会というのに入っているので都内の名店情報には事欠かないのだ。
バイト先は大手の家電量販チェーンで、僕が採用されたのは電器屋の息子なら基礎知識はあるだろうと見なされたからだと思う。しかし父に言わせれば「商売敵に寝返りやがって」ということになり、こうしてバイトの話題が出ると嫌味を言ってくるのが常だった。
「食うに困ってるわけじゃなし、夜まであくせくバイト代稼ぐこたあねえじゃねえか」
「いろいろかかるんだよ。ケータイの料金とかパソコンのローンとか。サークル旅行の資金だってためなきゃなんないし」
その手の遊興費は自分で稼げというのが我が家の方針だから僕もバイトに励んでいるのだが、「遊ぶ金ほしさに働く奴は馬鹿だ」というのが父の個人的な見解である。商人のくせに金にあくせくするのが嫌いで、僕が経済学部に合格した時にも嫌な顔をしたくらいなのだ。あるいは商売がうまくいかなくなったのもそういう性格のせいかもしれない。
行ってきますと言って外に出た。いつも半分閉まったままのシャッターの前を通り、私鉄の駅に向かって歩いていく。--うちの店のショーウインドーのシャッターが下がりっぱなしなのは店頭販売を行わなくなったからだが、同じ商店街には廃業したせいで完全にシャッターを下ろした店舗も少なくない。今では誰も商店街の愛称など口にせず、シャッター通りなどと呼ばれることの方が多かった。
大学に向かう満員電車の車内では、週刊誌の中吊り広告に海外ファンドによる企業乗っ取りという見出しが踊っている。ニュースの詳細は知らないが、巨大資本の前には個人なんて無力だと言われているような気がした。うちの電器屋に閑古鳥が鳴き、地元の商店街がシャッター通りとなってしまったように、結局は資本規模の大きい者が勝つ世の中のように思えるのだ。父の言うように大手企業のサラリーマンになったとしても、会社の金儲けの末端を担うだけなのかなあと思うと自分の未来に閉塞関さえ感じてしまう。
金儲けを厭う父に育てられたせいか子供の頃からバブル経済の破綻だの底無し不況だのというニュースばかり耳にしてきたせいか、僕は金の話というと不吉な印象を抱いてしまう。他に受からなかったから経済学部に入ったけれど、金銭絡みの学問はどうも好きになれなかった。ここ数年は景気も上向いてきたらしいが、企業買収や株式操作をする者ばかりが大儲けする世の中にはどこかに落とし穴があるような気がしてならない。
最近は個人投資がブームらしくて、大学の先輩にも株や為替相場をやっている人がいる。それで何十万も儲けたと聞けば羨ましくなるし、世の中には何十万どころか何億円も儲けた人もいるらしいが、誰かが損して誰かが得するだけならなんだか虚しく思える。経済学では資本の流動が経済を活性化させるというけれど、結局みんな金に支配されて金に動かされているように思えるのだ。--こんな世の中で自分はどんな道を歩むのか、などと考えてみても、答えはちっとも出てこない。
ふっとスコットのことを思い出した。こんな話を彼に聞かせ、僕の心でくすぶる疑問を出題してみたら、彼のイマジネーションはどんな物語を思い描いてくれるのだろう。