職人が育てた江戸前の技術
すし飯はどのように握られるべきか。今は亡きある名人はこう言った。
「電球にかざすと、ボーっと、飯粒の隙間を通して、かすかに明かりが見えるくらいのがいい。コロッところがしてもくずれないが、口の中に入れると、噛むまでもなく、舌で上あごに押し上げる程度で、ごはんがバラッとほぐれるのがいい…」
微妙なものである。一流の職人のすしは、すし飯とすし種が渾然一体となり、なめらかに口中でとろけていく。形に関しては、横から見ると、上に向かって少し広げた扇のような姿を良しとする。名人の言うような固さに握られたすしは、自然にそういう形になっているし、見た目にもおいしそうだ。
すし種の加工法に関しては、どうだろう。江戸湾で大量にとれた、すしにすることで初めてその真価を発揮するコハダは、江戸前ずしのルーツのようなものだ。「塩で殺して酢でしめる」。職人はよくそう言う。まず割いたコハダに塩を振り、置く。水洗いをして塩を流す。次に、前にコハダを漬け込んでコハダの脂がにじんでいる「二番」と呼ばれる酢で、ジャブジャブゆすぐ。これを「酢洗い」という。酢洗いしたコハダを重ねて軽く手で圧力をかけてよけいな酢をしぼり、少し置く。この段階でコハダの生臭さが除去される。そして新しい酢に漬ける。そうして酢から引き上げたコハダは、ボウルの周辺に立てかけるように収めて、最低でも一晩置いて酢をきる。どの程度塩をしてどの程度酢に漬けるかは、コハダの状態を見て、そのつど職人の裁量で決める。塩と酢が適度にしみ込み、コハダの脂とよく調和した握りずしを味わうと、コハダとはすしになるために生まれてきた魚なのだと実感する。
煮る加工を施したすし種の代表は、アナゴである。割いたアナゴは、竹で編んだ引きざる※4に並べる。アナゴの煮汁に酒、砂糖、醤油を足し、その中に引きざるごと入れてコトコト煮る。この、「アナゴの煮汁」というのがポイントだ。これを使わないと、アナゴは調味料の味がしみ込んだ分、脂が抜けてしまい、しっとりとうまく上がらない。煮汁はアナゴを煮上げたら漉して冷蔵庫で保存する。次にアナゴを煮る時は、また酒、砂糖、醤油を足して使う。こうしてアナゴの煮汁は永遠に使われる。弟子が独立する時は親方が煮汁を分けてあげるという、古き良き習慣を残す店は少なくなったようだ。客に出す際は、アナゴの煮汁に砂糖、醤油、みりんを加えてドロリとなるまで煮詰めた「ツメ」といわれるタレをひとはけ塗る。
正統的江戸前ずしの卵焼きは、アオヤギのハシラ、シバエビ、白身魚など使用する材料は店によって異なるが、これらのすり身を卵と合わせる。一般的な卵焼きやダシ巻きとは全く違う、上出来なカステラ※5のような風合を持つ。すしのデザートのようである。
「おぼろ」をつくる店は、今や稀少となってしまったが、江戸前の握りずしならではの、風雅なすし種である。シバエビをすりつぶして、砂糖、みりん、少量の塩と合わせて炒り上げる。塩をして酢でしめたキスの握りにかませたり、ノリ巻きにカンピョウ※6とともに巻いたりする。甘さと、ふうわりしてとろける口当たりの良さが、豊かなニュアンスをもたらす。