「まあ、どうぞ一杯」
フィリップ・ハーパーさん(41歳)はそう言って、しぼりたての酒を注いだおちょこを差し出した。
「日本酒は穀物からできているのに、果物のような香りがするでしょ。とても不思議。神秘的ですよね」
日本人のような所作に流暢な日本語。彼こそ外国人初の「杜氏」、つまり酒造りの総監督なのである。
フィリップさん(41歳)はイギリス・バーミンガム生まれ。名門オックスフォード大学で英文学を学んだ後、「どこか外国で暮らしてみたい」と日本政府のJETプログラムに応募。英語教師として大阪市の中学・高校に赴任した。
「当時、日本語が全くできなかったので、職員室でも先生方となかなかコミュニケーションがとれなかったんです。ところがある日、宴会がありまして。見ていると、『まあ、どうぞどうぞ』とか言いながら、お互いに酒を注ぎ合っている。それもちっちゃい盃で(笑)。こうやって日本人は気心を通じ合わせるんだ、とわかりました。つまり、お酒があれば、言葉はあまり要らない。僕にとって、とてもありがたい発見でした」
もともと、フィリップさんはアルコール好き。職員たちともうちとけ、「酔った勢い」で150種類の地酒をそろえる居酒屋について行った。すると、「宴会で出た酒と全く違う。それぞれに特長があって香りが異なる。これは面白いと思いました。全種類飲んでやろう、と決意したくらいです」
日本酒に魅せられたフィリップさんは、JETプログラムでの滞在(2年)を終えると、そのままその居酒屋でアルバイトを始めた。昼間は英会話学校に勤務し、夜は居酒屋で「日本酒研究」にいそしんだ。そして1年もたたないうちに、友人に誘われて奈良県の酒蔵に就職した。当時25歳。これも「酔った勢い」だったと、フィリップさんは微笑む。
酒造りの世界は厳しいことで知られる。杜氏の下で働く蔵人たちは、米を水に漬ける、蒸す、麹や酒母を造るといった工程にそれぞれ役割分担される。1年目に任された仕事は、米の精米だった。多いときで1日4tもの玄米を機械で精米し、手で袋詰めにする毎日。2年目は米を釜で蒸す作業。そして3年目になると、蒸した米から麹を造る作業、と経験を積んでいった。
「米を水に漬けたり蒸したりする時も、時間を秒単位で計るんです。米の水分量と、微生物の働き具合の微妙な組み合わせで酒の出来が変わってしまいますからね。何しろ生き物が相手。やり直しがきかないのでとても緊張しますが、その分、おいしい酒ができた時の感動も大きいんです」
フィリップさんは10年間この酒蔵で修業し、晴れて杜氏となった。その後は求めに応じて、茨城や大阪、京都など各地の酒蔵で、酒造りを指揮してきた。蔵によって水質や酵母などの微生物が違うので、酒造りに教科書はない、と言う。各地で経験を積んで、日々技に磨きをかけるのだ。
さらにフィリップさんは、仕事の合間をぬって日本酒ガイドブックを出版、海外で日本酒の利き酒イベントを開催するなど、普及活動にも積極的に取り組んでいる。
「日本酒を知ることは、日本文化を知ることです。僕は一人でも多くの方にこの神秘的な味わいを楽しんでもらいたいんです」