「かわいい」の裏事情—1
文●オバタカズユキ 写真●土屋弘明
青春時代の真ん中に「かわいい」の猛攻撃を受けた私(42歳)は、現在、3歳児の親として「かわいい」に囲まれた生活をしている。玩具だけでなく、子ども服も、子ども用の食器も文房具も、そこにはみんな「かわいい」キャラクターの絵柄が貼りついている。
そんな生活は、正直言うと、少々疲れる。だが、子ども用品売り場のほとんどが、そういう品なので仕方なく買わされてしまう。キャラクターがついていない品を親が懸命に探し、買い求めたとしても、祖父母から「かわいい」品が贈られてくる。「かわいい」品をプレゼントしてくれる友人の心遣いも、いちいち拒否するわけにはいかないだろう。日本の親として生きるには、とりあえず「かわいい」を受け入れるしかないのである。
私は「かわいい」品を素直にかわいいと受け止められないタイプの人間だ。かわいい動物なら幼少の頃よりたくさん飼育してきたが、「かわいい」品物は欲しくない。
動物は自然の一部である。一見、かわいくても、よくよく観察すると、怖かったり、危なかったり、人間には理解しきれなかったりする。そういう奥深さがある自然物に対して、「かわいい」品物はあくまで人工物である。どんなに「かわいい」の完成度が高かったとしても、それはしょせん、誰かの脳内で組み立てられた記号の集積にすぎない。
だから良い悪いというのではないが、できればわが子には、自然のほうの価値を伝えたいものだ。ところがわが家は、「かわいい」国日本の中心都市東京にあるため、周囲に自然らしきものがほとんどない。そこで私は、居間に水槽を置き、田舎の川で捕まえたフナを入れた。「かわいい」包囲網に対するささやかな抵抗だ。わが子が小さな水槽の中の大自然に見とれている姿は、残念ながら一度も目にしたことがない。フナは地味すぎたようだ。あきらめず、次策を練りたい。