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九州の北西部に位置する佐賀県には、隣の長崎県との県境に、多くの陶磁器産地が点在する。その一つ、西部の有田町は、日本で初めて磁器の陶石が発見、生産された磁器発祥の地だ。この磁器は後に、領主の鍋島藩により重要産業に育てあげられた。有田焼である。
大航海時代の16世紀、西欧諸国とアジアの行き来が活発になると、透き通るように白い肌の中国磁器は、遠くヨーロッパまで知られるようになった。やがて王侯貴族を魅了し、多くの白磁、色絵磁器がヨーロッパへ渡った。日本でも、当時、磁器といえば中国や朝鮮から輸入されるものばかりだったが、17世紀の初めになって有田で磁器が作られるようになる。ところが中国では清が起こって混乱が始まり、磁器の生産、流通がほとんど止まってしまうのだ。そして1650年頃、有田の磁器は中国磁器にかわり、オランダ東インド会社による海外輸出の新たな供給源となった。
有田焼は、伊万里の港から、海外と国内各所に出荷された。有田焼が、一般に“伊万里焼”と呼ばれるのは、こうした事情からだ。
広々とした田んぼのはずれに、低い山が連なっている。その谷底を縫うように一本の道が走る。国道35号とほぼ平行するこの道は、有田町の目抜き通りだ。東西約6qほどの道の両側に店舗が軒を連ね、青い染付や、赤や黄色や緑の絵付けが施された磁器が店先を彩る。また、白壁の建物や木造の大きな家、少し古びた西欧風の建築物もあちらこちらに見られ、古くから商人や買い物客の往来で賑わっていたことが窺える。この通りの中間点にあたる赤絵町は、有田焼の中心地だ。
1672年、鍋島藩は磁器の技術や絵付けの技法が領地外に漏れることを防ぐため、上絵付業者「赤絵屋」を1カ所に集めた。それが赤絵町である。赤絵屋は十数軒に限られ、絵具製作、釉薬の調合から上絵付けまで、門外不出の秘法として伝えてきた。天皇や将軍への献上品、貴族や他の大名たちへの贈り物などのために、藩は有田焼の最高級品「鍋島焼」を作らせた。赤絵屋の一つ、今泉今右衛門窯は、そのうちの「色鍋島」の絵付け技法を今に伝える。現在の当主、14代目今泉今右衛門さんは言う。
「色鍋島の品格と格調を現代的に追究する日々です」
町を歩けば、磁器に関連するものばかり。陶磁器に関わる神社や寺院も多いが、中でも陶山神社には、磁器製の鳥居が立つ。狛犬や灯籠、そしてお守りまでもが磁器製という徹底ぶりだ。
他にも、絵具が整然と並ぶ和絵具店や絵付けが体験できる工房、町の歴史を伝える美術館などが通りに並び、さらに先、泉山に足を延ばせば、約400年間、磁器の陶石を採掘しつづけた泉山磁石場が見られる。
散策の途中、山の方に煙の立つのが見えたので、上って行ってみた。
「1350℃まで上ったぞ!!」と叫ぶ声。その先に見えたのは登り窯だ。青年が薪をくべている。昔、有田の磁器は、山の斜面を利用した登り窯で焼かれていた。その製法を一から学ぼうと、深川製磁の若手職人の有志が自主的に始めた、年に一度の研修会だという。
1675年、さらに鍋島藩は藩直営の窯を築く。そして有田の優秀な陶工を集めた。それが有田町に隣接する伊万里市の大川内山だ。険しい山々が三方を囲む。その谷間に忽然と浮かび上がる町並み。背後には絶壁がそそり立つ。関所を設け、一切の雑音を遮断したこの集落は、街道筋に町を形成する有田に比べ、どこか厳しい雰囲気を持つ。現在は作陶と販売を行う窯元が立ち並び、週末ともなれば、やきものを求める客で賑わう。
現在の伊万里は、人も町もとても穏やか。日中も静かで、鳥や人の声がよく通るほどだ。しかし、伊万里川の岸に並ぶ漆喰塗の蔵や、橋の欄干に立つ磁器人形の凜々しい姿は、磁器を載せた大小たくさんの船や、磁器問屋や他国からの買い付け人で賑わった、かつての町の姿を偲ばせる。
海を渡った有田焼は、たちまち西欧諸国に広まった。ドイツのマイセン、オランダのデルフトなど、有田の磁器の美しさに魅了され、大きな影響を受けた磁器も多い。そして、ドイツのツヴィンガー宮殿、フランスのヴェルサイユ宮殿には、当時の有田焼が今も展示されている。
中国や朝鮮の磁器に学び、そこに独自の技術と文様を加えることで発展させ、最高級の磁器を生み出した有田・伊万里。現代日本が得意とする工業技術にも通じる、世界基準の製品作りは、はるか400年の昔に始まっていたのだ。
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