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長崎市は、九州島の北西部にある長崎県の中心地。細長い長崎湾と、それを屏風のように囲む山々の間に長崎の市街は広がっている。中世に貿易港として開かれてからは、海外の文化が入り込み、町並みなどに、今もその面影が残っている。「異国情緒」の漂う町として、長崎の人気は高く、訪れる人は後を絶たない。
貿易港としての長崎の歴史が始まるのは、1570年のこと。鉄砲やキリスト教が、西欧から相次いで日本に伝えられたのを機に、当時の領主・大村純忠は、長崎に港を開いて海外の貿易船を積極的に受け入れた。1641年から200年以上にわたって、江戸幕府が外国との交易を絶った鎖国の間も、長崎は外国に向けて開かれた唯一の窓口だった。オランダとの貿易は、人工島の出島で行われたが、今ではここも市の中心地。ぽっかり浮かんだ出島に、オランダの貿易商が押し込められ、暮らしたころの名残はもうない。
鎖国が解かれた後、19世紀後半にイギリスやロシア、中国などから来た人びとの居留地となったのが、出島の南側の地域。その最も南の小高い丘にグラバー園はある。かつての外国人住宅が9棟、移築・整備された園内は、まるで西洋の町のようなたたずまい。なかでも、1859年にイギリス人貿易商が建てた旧グラバー邸は、日本最古の木造洋館として知られる。コロニアル・スタイルの邸から庭先に出れば、視界一杯に長崎港が広がる。港を行き交う船を眺めながら、異国の地で、主は何を考えたのだろう。
グラバー園のすぐ隣には、1864年に創建された日本で最も古い木造のゴシック建築教会、大浦天主堂がある。ステンドグラスが美しいこの教会は、国宝に指定されている。
もう一カ所、西欧の町並みが見られるのが、大浦天主堂の北にあるオランダ坂。石畳のこの坂は、教会に通う人びとが利用した坂である。そのオランダ坂を下りきると、もう一息で新中華街だ。
新中華街は、かつて中国交易の舞台だったところ。わずか200m四方の町に、中華料理店や雑貨店がひしめいている。長崎の名物料理「ちゃんぽん」は、100年ほど前に、中華料理店・四海樓で生まれた。中国の麺料理を基に、小エビやイカ、モヤシやキャベツなど、いろいろな食材を盛り込んだ栄養満点の料理だ。「ちゃんぽん」は、「いろいろなものが混ざった」という意味の言葉になったほど、日本中に広まっている。
「長崎は、いろいろな国の文化を吸収して、独自の文化を築いてきました。ちゃんぽんも、ベースは中国料理ですが、長崎でとれた材料を使った、長崎でなければ生まれなかった料理だと思います」と、四海樓の専務・陳優継さんは話す。
地理的に近いこともあってか、17世紀後半には、長崎の人口約6万のうち、1万人は中国人だったという。長崎にとって、中国はとても身近な国なのだ。当時の中国の人びとが建てた寺院は、今でも残っている。代表的なものが、新中華街の東にある崇福寺と、その北の興福寺。きっと、故国に想いを馳せながら、お参りしたことだろう。また、橋脚が川面に映った様子から、眼鏡橋と名付けられた石橋も、中国の僧侶によって架けられたものである。
いたるところに、西洋と中国の文化の影響が見られる長崎は、町全体が文化の「ちゃんぽん」なのだ。
さて、長崎には、忘れてはならないことがある。それは、長崎が広島とともに原子爆弾に被災したこと。1945年8月9日、市街北部に投下された原爆により、付近一帯は一瞬にして死の海と化し、7万5000もの尊い命が奪われた。現在、爆心地は公園として整備され、かつての悲劇がまるで嘘のようだ。しかし毎年8月9日には、平和公園で犠牲者の慰霊祭が行われている。
外国の文化に彩られた長崎の町は、戦争の悲劇を乗り越え、平和を祈り続けている町でもあるのだ。
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