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本州島の最西端にある山口県。萩市は、その北側、日本海に面した町だ。南から海に向かってそそぐ阿武川の河口に、萩の城下町は広がる。町中の白い土塀や板塀が続く道は静かで、道行く人もどこか穏やかだ。この小さく、そして落ち着いた城下町から、近代日本を生みだす動乱が起こったことを想像することは、現代ではなかなか難しいだろう。
16世紀、萩を含む西日本一帯は、毛利氏によって治められていた。しかし、1600年の関ヶ原の戦いに毛利氏は敗れ、広大な領地は削られて、本州島の西端に押し込められてしまうことに。そして1604年、萩の地に城を築くことになったのだ。それからおよそ250年後、江戸幕府の弱体化と外国からの圧力が高まるなかで、革命的な若者たちがこの町から数多く育っていった。やがて幕府や外国との戦争を経験した彼らがひとつの中心となって、明治維新が達成される。萩は、近代日本が産声をあげた土地なのである。
そんな萩の町には、歴史的な建物がそこかしこに残されている。いわば、町全体がそのまま歴史博物館になっているのだ。萩城跡を背にして、市の中心部へ向うと、毛利一門や、重臣たちの屋敷が立ち並ぶ一帯に出る。白壁が130mも続く「問田益田氏旧宅土塀」や、萩の武家屋敷でもっとも大きい「旧厚狭毛利家萩屋敷長屋」などは、上級武士の代表的な建物だ。こうした建物が集まるところに、道の何カ所かを直角に曲げた「鍵曲」が残っている。これは城下に侵入した敵がまっすぐ進めないようにするための造りだ。
少し東に進むと、中級武士や豪商の家が軒を連ねた地域になる。なまこ壁が美しい「菊屋横丁」には、その名の由来となった、現存するもっとも古い町家のひとつ「菊屋家住宅」がある。豪商の暮らしぶりを伝える邸内には、屏風や掛け軸などの美術品も展示されている。また周辺には、高杉晋作や木戸孝允などの「革命的な若者」が生まれ住んだ家も残る。この界隈を歩けば、家々の塀越しに、今でも血気盛んな若者の声が聞こえてきそうだ。
阿武川から分かれた松本川を越え、東に足を延ばせば「松下村塾」がある。吉田松陰が開いたこの私塾は、木造平屋建てで、わずか50窒ルどしかない小さなものだが、ここから、高杉や木戸をはじめ、後に新政府の首相となった伊藤博文、山県有朋など、近代日本を築いた数多くの人材が巣立った。また塾の北側には、吉田松陰を祀った「松陰神社」が静かにたたずんでいる。ここから10分ほど東に歩くと、そこは、毛利家の藩主が祀られている「東光寺」。500余基もの石灯籠が整然と立ち並ぶさまは、まさに壮観だ。
萩では、町を代表する産業にも長い歴史がある。「萩焼」だ。16世紀末に、朝鮮から来た陶工によって、始められた萩焼は、日本を代表するやきもののひとつである。特に、茶道で用いられる茶碗は「一楽二萩三唐津」と称され、楽焼や唐津焼とともに、最高の茶碗として評価されている。萩焼が発達したのは、陶工たちの優れた技術と、原料となる良質な土に恵まれたこと、産業として毛利氏によって保護・育成されたことによる。
その器作りを体験できる「萩焼会館」で、萩焼の特徴について尋ねてみた。
「萩焼には、貫入と呼ばれる細かいひびがあるのが特徴です。使っているうちに、水分や茶渋が、ひびからしみ込んで、色がどんどん変化してきます。『萩の七化け』というのですが、使い込むほどに味わいが出てくる。それが萩焼なんです」
岡藤哲彦さんは、こう語ってくれた。
萩の町では、ありふれた民家の軒先にも、江戸時代からの歴史の名残が感じられる。初夏ともなると、たわわに実った夏みかんが土塀越しに顔をのぞかせる。気候も暮らす人びとも穏やかな萩。ここを訪れる人は、現代に息づく歴史を体感することできる。それが萩を散策する醍醐味といえるだろう。
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