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岡山城(岡山県)
12世紀中頃に基礎が造られ、1597年に宇喜田秀家により築城された。1603年に池田忠継が入城してから270年あまり、池田家の居城であった。現在の天守閣は、1966年に復元したものである。黒塗り板張りの外観から、カラスになぞらえて「烏城」と呼ばれ、さらに、天守閣の屋根に金の 鯱 を挙げていることから「金烏城」とも呼ばれる。江戸時代に、城の東北側に、旭川を隔てて築かれた庭園・後楽園とともに、岡山県の観光名所として広く知られる。
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旭川越しに見る岡山城天守閣
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城造りに携わる人々1
石工集団
穴太衆・粟田純司さん
文●古井麻子 写真●大森裕之 天守閣の基礎や堀の周りに配されて城の守りを固めている石垣。この石垣の構築でよく知られているのが「穴太衆」だ。滋賀県大津市坂本の穴太の里に本拠を置いた石工集団で、安土城、姫路城、江戸城など、穴太衆が築いたとされる石垣は多い。6世紀頃から古墳の築造に活躍したと考えられているが、戦国時代の終わり頃から、その名が記録に残っている。その系譜を今に受け継ぐのが、坂本の粟田家だ。 「石の声を聞き、石が行きたいところに持っていけ、というのが穴太衆の教え。そうして組まれた石垣は水害や地震にも崩れることはありません」と14代目の粟田純司さん。大きな被害が出た阪神・淡路大震災でも穴太衆の石垣は無事だったという。 「人間の命は数十年ですが、石積みは何百年も残る。いい加減な仕事はできません」 粟田さんは今日も、全国の石垣の修復に飛び回っている。 |
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「設計図は作りません。集めた石を2、3日眺めた後、頭でイメージを描いて積み始めるんです」と粟田さん。伝統の工法は口伝(くでん)によって受け継がれてきた。粟田さんも先代である父の石積みを見ながら覚えていったという
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